資生堂の歴史は、商品やサービスだけでは語ることができません。文化や生き方まで見つめ、常に新しい価値を創造し続けてきた軌跡。それが資生堂の歴史です。1872年、日本初の洋風調剤薬局として創業した資生堂の、150年以上にわたる歩みをご紹介します。
1872
福原有信が東京・銀座にわが国初の民間洋風調剤薬局として創業
福原有信
1872年、資生堂は漢方薬が主流の時代にあって、日本初の民間洋風調剤薬局として東京・銀座に誕生しました。創業者の福原有信は海軍病院の薬局長でしたが、世間に粗悪な薬品が出回っていることを憂い、また、日本にはない医薬分業システムの確立を志して、資生堂を開業しました。有信が24歳の時でした。
わが国初の民間洋風調剤薬局
資生堂という名は、中国の古典「易経」の中の「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる」という意味の一節に由来します。ここから新たな文化を生み出そうとする決意を込めた社名であり、西洋薬学に基づく新事業を興すにあたり、東洋哲学から命名するという、「和魂洋才」の考え方がよく現れています。
こうした薬局スタイルは今までにない新しい事業であり、品質のよい高価な薬品ばかりを取り揃えていたため、創業当初の経営はかなり苦しいものでした。しかし高品質、先進性、本物志向という理念は徐々に理解されるようになり、信頼できる薬局として、資生堂の名は人々にひろく知られるようになっていきました。
1902
店舗内に日本で初めてソーダファウンテンを設け、ソーダ水、アイスクリームの製造販売開始
ソーダ水、アイスクリームの製造販売開始
1902年、東京銀座の資生堂薬局内に「ソーダファウンテン」が設置されました。これは資生堂の創業者、福原有信が1900年の欧米視察旅行で見た、ソ―ダ水とアイスクリームを製造販売するアメリカのドラッグストアにヒントを得て開設したものです。本物志向の福原有信はソーダ水製造機だけでなく、知人の貿易商に依頼し、シロップやコップ、スプーン、ストローに至るまで、すべてをアメリカから取り寄せました。
当時まだ珍しかったソーダ水やアイスクリームは、当時の日本のさまざまな文学作品にも登場するほどの評判をよび、「ハイカラな資生堂」というイメージを強く印象づけることとなりました。
この事業は、1928年に資生堂アイスクリームパーラーへと発展し、現在の資生堂パーラーに受継がれています。
1915
商標「花椿」の原型考案(1919年商標登録)
1888
日本初の練り歯磨「福原衛生歯磨石鹸」発売
福原衛生歯磨石鹸
1888年、資生堂は日本初の練り歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売しました。それ以前の日本には、粉の歯磨しかなく、粒子も粗かったため、かえって歯を傷めることもありました。それに引き換え、歯磨石鹸は滑らかで歯を傷める心配もなく、歯の汚れを科学的に溶解するうえ、口臭を除去し、使用感も今までになく斬新であったため、当時主流だった粉歯磨きの約10倍もする高額な品物でしたが、売れ行きは上々でした。粉のように飛び散って周りを汚すこともないので、海軍でも喜んで使われました。
1897
化粧品業界へ進出(「オイデルミン」発売)
オイデルミン
1897年、資生堂は「オイデルミン」のほか数点の商品を発売し化粧品業界に進出しました。中味の処方は、ベルリン大学に留学経験のある当時の東京帝国大学教授長井長義博士の研究にもとづくもので、資生堂は化粧品においても、薬品同様、科学的で高品質な商品の開発をめざしました。
当時の化粧水は日本風の名称が大半であったのに対し、オイデルミンはギリシャ語の「eu」(良い)と「derma」(皮膚)からの造語で、容器のガラス瓶も美しく、しかも中の液体が赤ワインを思わせる鮮やかな色味をしていたので、「資生堂の赤い水」の愛称で親しまれました。
オイデルミンは、発売から100年以上たつ現在も多くのひとに愛用されている、超ロングセラー商品です。発売100年にあたる1997年には、フランスのクリエーター、セルジュ・ルタンスによる「オイデルミン グローバル」が、脈々と受継がれる資生堂の美意識の象徴として、日本をはじめ海外で同時に発売されました。中味の処方も更に進化し、「乾燥から肌の水分を保持し肌の生まれかわりのリズムを整える」高機能化粧液となっています。
竹川町11番地(現・銀座7丁目)に化粧品部開店
資生堂は、1916年にソーダファウンテンのある薬局から化粧品部門を独立させ、従来の店と道ひとつ隔てた大通りに面した角ビルに、化粧品販売を行う化粧品部を開店しました。煉瓦造り三階建てのビルで、一階に店舗、二階は化粧品の製造場、三階には意匠部、試験室が新設されました。
意匠部の主な仕事は、ポスターや新聞・雑誌広告の制作、パッケージデザイン、店舗設計などです。美大の学生や若手画家が所属し、パリのファッション雑誌などを参考にしながら、流麗で優美な曲線を描くアール・ヌーボーやアール・デコをデザインの基調として、のちに「資生堂スタイル」と呼ばれるモダンで洗練されたデザインを生み出していきました。化粧品事業に乗り出してまだ間のない資生堂が、このような宣伝専門のスタッフを置いたのは、初代社長・福原信三が企業におけるデザインの重要性を認識していたからにほかなりません。
試験室は、新製品の開発と既製品の改良を担当しました。試験室はのちに研究室、さらに化学研究所と規模が拡大され、現在の資生堂リサーチセンターに発展します。この当時に、化粧品を化学製品として取扱い、厳格に品質を保証しようとする姿勢は、非常に進歩的で、品質を重んじる企業理念がうかがえます。
日本人により制作された最初の本格的香水「花椿」発売
1910年代の日本における香水はパリからの輸入品が中心で、中には粗悪な模造品も見られましたが、初代社長・福原信三は椿や梅、藤といった日本的な花の香りになぞらえた香水を創りだしました。1917年に発売した香水「花椿」は、日本人の手で制作された最初の本格的香水とも言われています。翌1918年には香水「梅」や「藤」を発売。カットグラスを思わせる良質なガラス瓶を使用し、商品名と花のデザインを金箔で焼き付けるという豪華なものでした。同年、婦人雑誌に掲載された広告には、資生堂の特製香水として21種もの香水名が記されています。
福原信三は、単に花の香りを再現するにとどまらず、花のもつ感覚、イメージを香りとして創作しようと努めました。香水「月見草」では、砂丘の彼方に太陽が沈むなか、月見草の黄色い花が開く情景を香りに表現するという、斬新な試みを行いました。
1919
現存する日本で最古の画廊である資生堂ギャラリー開設
1922
三科「美容科」「美髪科」「子供服科」開設、美髪科主任として米国よりヘレン・グロスマンを招く
「美容科」「美髪科」「子供服科」
1922年、資生堂意匠部員の三須裕のアイデアで、竹川町十一番地(現・銀座7丁目のSHISEIDO THE GINZAの位置)にあった資生堂化粧品部2階を改装し、美容科・美髪科・子供服科の三科を開設しました。
美容科では、専任の医師を招き、美顔術と美容皮膚科を実施。美容皮膚科の看板は日本で初めて掲げられました。美髪科にはアメリカから美容師ヘレン・グロスマンを招きました。まだ日本髪の多かった時代に、日本に初めてカールをもたらし、かぶと型ドライヤーを導入。また、美髪科の延長として「新しい結髪と美容の講演と実演の会」を全国主要都市で開催し、実演した最新のヘアスタイル「耳かくし」は日本中で大流行となりました。
子供服科では、フランスから帰国したばかりの武林文子(武林夢想庵夫人)を招き、実務はアメリカ帰りの洋裁師が行いました。
ヘレン・グロスマン
アメリカの美容師。1922年来日し、資生堂美髪科主任となりました。
洗髪(シャンプー)、縮髪(ウエーブ)、束髪(ヘアドレッシング)、 美顔術(フェーシャル)、美爪術(マニキュアリング)、美眉術(アイブロウ)などアメリカの最新の美容技術を日本にもたらしました。1923年9月の関東大震災後、アメリカに帰国。
1924
愛用者向け文化情報誌「資生堂月報」創刊(~1931)
資生堂月報
1924年、資生堂は愛用者向け文化情報誌「資生堂月報」を創刊しました。化粧品業界としては初めての情報誌で、資生堂のチェインストアを通じて全国に配付されました。
第1号を見ると、「美と若さを保つ健康法」といった美容記事のほか「コーヒーの入れ方」などさまざまな情報が誌面を彩っています。
パリのファッションやヘアスタイルなど、そのころとしては珍しかった海外のトレンド情報も多く紹介されており、資生堂の高級イメージを形づくるのに大きく貢献しました。その後、1933年に「資生堂グラフ」、1937年に「花椿」と改題され、今日に至っています。
「資生堂月報」は銀座を歩く女性を撮影したスナップ写真なども掲載しており、当時の風俗を知ることができる貴重な資料となっています。
1917
「七色粉白粉」発売
七色粉白粉(着色福原粉白粉七種)
1917年、資生堂は「七色粉白粉」を発売しました。白粉といえば白があたりまえだった時代に、七色の白粉を考えたことは、大変斬新な発想といえます。
七色は、「白」「黄」「肉黄」「ばら」「ぼたん」「緑」「紫」で、個々の肌色に合わせて白粉の色を使い分けるという、先駆的な考えに基づく商品でした。「電球の下でよく映える」として芸者たちの間で人気をよび評判となり、それはやがて1932年に発売される「モダンカラー粉白粉」九色へと続いていきました。
容器は、正方形の四すみを直線で切った八角形で、当時ヨーロッパで勃興しつつあったアール・デコスタイルがいち早く取り入れられています。
コールドクリーム
1918年、資生堂は、「コールドクリーム」を発売しました。
皮膚への効果を高める高価な原料を処方に加えた高品質「コールドクリーム」は大変評判がよく、資生堂化粧品に対する信頼度を大きく高めました。
容器は胴をふくらませた白い玉瓶で、すり合わせの蓋を薄い膜で包み、銀糸で結びました。レーベルは金色で印刷し、文字とデザインをから押しで浮き出させています。
1920年代後半になると、他の化粧品会社からもコールドクリームが次々と発売されるようになりますが、資生堂のコールドクリームはその後の技術革新により処方の改良を何度も重ね、日本の代表的クリームとして40年以上その名声をとどめました。
資生堂五大主義
1921年、資生堂は「五大主義」という社業の基本理念を確立しました。
品質本位主義
品質を生命とし、つねに最高水準を目ざす。
共存共栄主義
近代的組織を基盤とし、相互繁栄を期する
小売主義
(1955年、「消費者主義」に改められる)
消費者志向の経営に徹する
堅実主義
合理主義を根底とした科学的経営に徹する。
徳義尊重主義
つねに相手を尊重し、正しく誠意ある経営に徹する。
この考えに基づき、資生堂は消費者・小売店・メーカーの共存共栄をはかるため、アメリカの制度を参考にした独自のチェインストア制度を1923年に発案しました。
資生堂化粧品連鎖店(チェインストア)制度
1910年代の日本における化粧品販売は、値引き競争が過熱し、小売店は大変苦しい経営を余儀なくされていました。そこで資生堂は1923年に化粧品連鎖店(チェインストア)制度を打ち出し、これを強力に推進しました。
資生堂化粧品連鎖店(チェインストア)制度は取次店、小売店が適正な利潤を確保できるよう定価販売を励行するものでしたが、資生堂がこの制度を発表した時、業界の反応は冷ややかでした。資生堂だけで値引き競争が改善できるとは思えなかったためです。しかし定価販売という理念に共鳴する小売店が次々と契約を結び、契約小売店数は予想を大きく上回り、翌年には2,000店に上りました。その結果、値引き競争が抑止され、正常な定価販売が行われ、消費者はどの店でも安心していつも同じ価格で資生堂化粧品を購入することが可能となったのです。
1927
株式会社資生堂となる。取締役社長に福原信三就任
福原信三
福原信三は資生堂の創業者・福原有信の三男であり、事業の後継者です。1927年に資生堂を株式会社にした際は初代社長に就任しています。少年時代に当時の一流芸術家から日本画、水彩画、油絵、そして写真の指導を受けていた彼は画家を志望していましたが、長兄の病気、次兄の早世で家業を継ぐこととなり、現千葉大学の薬学科に進みました。
薬剤師の資格を得た福原信三は、有信の勧めに従いアメリカに留学、1908年、25歳でコロンビア大学薬学部に入りました。卒業後、ニューヨーク郊外のドラッグストアと、薬品メーカーの化粧品工場で2年間働きました。そこでのまじめな仕事ぶりが評価された福原信三は、メーカーの社長からさまざまな化粧品の処方箋をプレゼントされます。それらは後の商品開発に大変役立ちました。
米国留学の後、渡欧しパリに滞在して若手日本人画家たちと交流をもち、自らもロンドンのマリオン社に特別注文して作らせた写真機トロッペン・ソホを手に、写真家としての第一歩を踏み出しました。
1928
資生堂化粧品部、資生堂アイスクリームパーラー開店
ドリュウ(ドルックス)化粧品
1932年、資生堂を代表するブランドが誕生しました。当時の最高級化粧品「ドルックス」です。発売時に、アメリカの石鹸「ラックス」と商標権でもつれたため「ドリュウ」と称しましたが、間もなく解決しました。
発売当初は白粉、バニシングクリーム、石鹸など5品でしたが、のちに香水や口紅も制作され、全品が「澄んだ感じの、優雅で上品な匂い」で統一されました。パッケージには銀地に墨一色で、資生堂らしい洗練されたカリグラフが描かれています。品質も最高級を追求、商品目録の石鹸の項には「フランスへの贈り物にしても恥ずかしくありません」とあり、相当の自信をもって制作、販売していたことがわかります。価格は資生堂が発売していた従来品の2~4倍に設定されました。
戦争が始まると、ぜいたく品として製造が中止されましたが、経済が復興し始めた1951年に復活を果たしました。現在では、後発の新製品に高級品の地位を譲り、品質が良くリーズナブルなブランドとして人々に親しまれています。
1934
ミス・シセイドウ宣伝活動開始
ミス・シセイドウ
1934年、「ミス・シセイドウ」の第1期生9名がデビューしました。店頭でお客さまの美容相談に応じる「パーソナルビューティーパートナー」の前身です。彼女らは「良家の子女求む」という新聞広告を見て集まった240名以上もの女性のなかから選抜されました。7ヶ月間におよぶ事前研修では、美容技術、化粧品学、皮膚科学、生理学、宣伝術、服飾、流行、声楽、西洋画法、社交常識などを学び、広い知識と教養を身につけることが要求されました。
ミス・シセイドウの初仕事は大阪を皮切りに日本各地で開かれた「近代美容劇」でした。5つの場面を通して、最新の美容法と美容技術を芝居形式で紹介するというユニークなもので、見る側が楽しみながら美容知識を吸収できるよう構成されています。
劇のあと、彼女らは急いで制服に着替えて来客一人ひとりの美容相談に応じ、美容処方箋を書いて手渡しました。お客さまの肌タイプや好みに合わせた美容法を紹介する「店頭活動」の原点がここに見られます。
1937
美容法「資生堂式新美顔術」を完成し、専用化粧品発売。カラーフィルムを使用した同名の美容映画制作
新資生堂式美顔術
1937年に資生堂は「新資生堂式美顔術」を完成させ、日本女性の肌の状態に適した化粧品を、当時最新の皮膚科学技術を用いて開発した「肌の美容法」に従って販売しました。これらの新しい美容技術に使われた特殊な商品は、美白や炎症、肌あれ、ニキビや吹き出物を治療するための化粧品でした。また、食事や運動を改善する必要性がパンフレットに書かれ、その美容法が、単なる化粧品とは全く異なり、肌の健康に対して全身的な取り組み方を唱えていることが分かります。
この新しい美顔術を広めるために、当時日本では非常に珍しかったカラー映画が制作されました。資生堂の歴史の記録によると、このフィルムを現像する施設が日本にはなかったため、フィルムは船でニューヨークに送られ、そこで現像されたとのこと。この映画は、1938年に花椿会の創立総会で上映され、出席した人たちに大きな驚きを与えました。
「新資生堂式美顔術」は、第二次世界大戦後に導入された「資生堂式美容法」の基礎となりました。
資生堂化学研究所
1916年に資生堂化粧品部3階に設けた「試験室」が研究室、研究部として発展、独立。第二次世界大戦の空襲により、当時の施設も資料もすべて焼失しましたが、1948年に復活。復活に際して招かれた池田鉄作博士は、商品の安全性テストを取り入れるなど、化粧品づくりをより近代科学の領域に発展させました。
昭和30年代後半に入って、化粧品技術は大きな展開期を迎え、従来の物理化学的な研究に加えて、皮膚科学、毛髪研究を中心に、化粧品の安全性や有用性、心理学的な研究、色彩・色材、化粧品の分析技術、容器材料の研究など総合的なアプローチをとるようになりました。1973年、横浜に研究所を一本化し、名称を「資生堂研究所」に変更。その後「リサーチセンター」となり、基礎から応用、製品開発研究など幅広い機能を備える研究所として今日に至ります。
1927
和文ロゴタイプ確立
和文ロゴタイプ
1927年、和文ロゴタイプ「資生堂」が完成しました。1923年、資生堂は新聞や書籍など一般に広く使われる明朝体活字で表記してきた社名を、資生堂の企業像にふさわしい特定の書体に変えようとする試みに着手しました。それは、初代社長・福原信三の「店文字をつくろう」というひとことから始まりました。
当時の意匠部員らが、複数の中国古典に書かれていた書体を参考に「宋朝風書体」の考案にとりかかり、何度か改良と修正を加えて、資生堂和文書体を完成しました。この書体は、商品名はもちろん資生堂ギャラリーの展示看板、資生堂パーラーのメニュー、新聞雑誌広告のレタリングまで幅広く用いられ、資生堂のコーポレートアイデンティティーの表象として大きな役割を果たしました。
現在でも、資生堂に入社した新人デザイナーは、この書体が手書きで自在に描けるようになるまで徹底的に練習します。それほど、資生堂のデザインにとって重要な要素となっています。
1928
欧文ロゴタイプ確立
欧文ロゴタイプ
日本語の社名をそのまま表した欧文の斜体ロゴ。意匠部員矢部季が初期にSHISEIDOの二つの「S」を右に、「O」を左に傾け、全体の均衡をとりました。「O」は別として、二つの「S」の斜体化は、欧文ロゴタイプ制定のうえで、デザインとして決定的な役割を担いました。以来推進されてきた欧文ロゴタイプの制定は、1928年落成の資生堂化粧品店ならびに資生堂パーラーの正面に取り付けた社名表示によってほぼ確立しました。和文ロゴタイプと同様、欧文ロゴタイプも前田貢が書き、意匠部長・高木長葉が決定しました。
1931
東南アジア向けに「ローズ化粧品」輸出。初の本格的海外展開
1933
「資生堂月報」に代わって「資生堂グラフ」創刊(~1937)
1937
花椿会発足、最初の花椿会記念品制作(~2003)
花椿会
1937年、資生堂は愛用者組織である「花椿会」を発足させました。花椿会は資生堂化粧品を愛用する女性を会員とし、真の女性美を磨くための正しい化粧法を普及させ、近代女性としての趣味教養を高めることを目的としました。
会員にはお客さま向け文化情報誌「花椿」(前身は1924年刊行の「資生堂月報」)や美容に関する各種パンフレットを提供するとともに、日本各地で開催された美容講習会や後援会に招待しました。
また、1年間で一定金額以上資生堂化粧品を購入した会員には、毎年、記念品を差し上げました。最初の年の記念品はアール・デコ風の金属製バニティケース、翌年は西陣織ハンドバック、その翌年は陶製帯留とぜいたくな品が続きました。いずれもオリジナルデザインの限定品であり、記念品が単なる販売促進施策ではないことを物語っています。
花椿会は、会員からは美容や文化に関する最新情報が得られると喜ばれ、チェインストアからはお客さまの固定化につながると歓迎されました。花椿会により愛用者とチェインストア、そして資生堂の結びつきはいっそう強まりました。
1937
「資生堂グラフ」に代わって「花椿」創刊
1953
資生堂美容研究所(現:資生堂ビューティクリエーションセンター)開設
1957
台湾で販売開始
1961
初のメイクアップキャンペーン「キャンディトーン」実施
キャンディトーン
1961年、資生堂は初のキャンペーン方式による宣伝を行いました。当時の日本経済は安定してきており、時代は大量生産、大量消費の入口にあり、国民の生活水準も向上していました。こうした状況を背景として、資生堂はその春に予測された流行色を取り入れた口紅7色を前面に出し「’61キャンディトーン」を展開しました。宣伝と売り場が連携して、商品を消費者に強く印象づけました。資生堂はこのキャンペーンを皮切りに、季節ごとのキャンペーンを展開していきます。
1962
資生堂会館(現:東京銀座資生堂ビル)完成
1965
資生堂コスメティックス(アメリカ)設立
1968
横浜に資生堂研究所(2019年に資生堂グローバルイノベーションセンターに改称)完成
1972
創業100周年、「資生堂社会福祉事業団」設立(現:資生堂子ども財団)、第1回資生堂国際会議「光と皮膚のセミナー」開催
1975
掛川工場完成
1959
資生堂美容学校開校
1959
大船工場 完成(のちに鎌倉工場に改称、2015年稼働終了)
1962
資生堂が出資した、初の海外の販売会社資生堂オブハワイ設立
1963
イタリア・ミラノで販売開始、初のヨーロッパ向け化粧品輸出
1966
サマー・キャンペーン「太陽に愛されよう」撮影のため、日本の広告で初めて海外ロケをハワイで実施
サマー・キャンペーン「太陽に愛されよう」
1966年、資生堂は「太陽」をテーマに、日やけした肌の健康的な美しさを前面に打ち出したサマー・キャンペーン「太陽に愛されよう」を実施しました。キャンペーンは大成功で、日やけも女性の美しさの一つとして市民権を得るほど、美に対する概念をがらりと変えました。
またハワイでの、日本で初めての海外ロケを行ったポスターは大変な評判を呼び、一時は全国の店頭からポスターが持ち去られるほどの騒ぎが起き、当時無名だったモデルの前田美波里は一夜にしてスターになりました。
このサマー・キャンペーンを皮切りに、明るい日ざしのもと、夏を謳歌する化粧品プロモーションの華やかな歴史が始まりました。
1975
「資生堂ザ・ギンザ」開店
(のちにSHISEIDO THE STOREとしてリニューアルオープン)
1977
ファッションショー「6人のパリ」開催
「6人のパリ」
1977年、パリの新進デザイナー6名を日本に招き、東京、大阪、福岡、広島、仙台、札幌、名古屋の7都市でファッションショーを開催しました。
ジャン=シャルル・ド・カステルバジャック、ダン・ベランジェ、アンヌ=マリー・ベレッタ、ジャン=クロード・リュカ、クロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、6名のフランス人デザイナーのショーは大きな反響を呼びました。資生堂は彼らが提唱する「自由」「健康」「楽しさ」そして「純粋に生きる」という新しいライフスタイルに共鳴し、「マイピュアレディ」をキャッチコピーとするプロモーションを展開し、こちらも大きな話題となりました。また、このファッションショーを契機に、資生堂の技術力と化粧品の品質がパリで認められ、以後、パリコレクションでヘアメイクアップを依頼されるように。以来、パリやNYコレクションのバックステージで、資生堂のメイクアップアーティストが活躍することになりました。
1984
バイオヒアルロン酸の量産化に成功
1986
「資生堂の美と広告1872~1986」展開催(パリ広告美術館)
1986
ピエールファーブル社と合弁会社「ピエール ファーブル ジャポン」を設立
1978
掛川に資生堂アートハウス完成
1980
セルジュ・ルタンスをイメージ・クリエイターに起用
セルジュ・ルタンス
資生堂のヨーロッパ進出を支えたフランス人アーティスト。舞台装飾、衣装、ヘアデザイン、メイクアップ、彫刻、金細工、写真、映画と、一人ですべてを創作・表現。資生堂商品のインターナショナルなイメージの創造に携わりました。最初のジェネリック・イメージ(Generic Image)「漆黒を背景に太陽を思わせる真っ赤な円を抱いて泳ぐ女性」のポスターは、太陽と東洋の哲学をシンボライズしたものとして、コーポレート・イメージの役割を担いました。一貫性と継続性を重視する方法論に沿って、この円形はその後も表現の基本要素として反復使用され、海外戦略のためのイメージづくりを成功に導きました。以後、ルタンスは資生堂のメイクアップのカラークリエーションを手がけ、プレステージブランド戦略に大きな役割を果たしました。
1985
「The Art of Beauty」(資生堂広告美術113の歩み)展開催(ニューヨーク、ファッション工科大学内ギャラリー)
The Art of Beauty
1985年にニューヨーク州立ファッション工科大学(FIT)からの要請で、資生堂コスメティクス・アメリカ20周年記念行事の一環として、資生堂広告美術展「The Art of Beauty」を開催しました。創業以来の広告デザインやポスター、商品パッケージなどを時代背景とともに紹介し、資生堂の宣伝制作物のもつ、独自のアート性が高く評価されました。
翌1986年には、パリ広告美術館主催で内容をさらに充実させた「資生堂広告美術展」が開催されました。ここでは、資生堂のデザインワークはフランスのアール・ヌーボー、アール・デコと日本の伝統文化をハイブリッドさせた独自のビジュアル表現であると、多くのフランス人から評価されました。
その後も、1997年に「PARIS-TOKYOーPARIS SHISEIDO 1897-1997 LA BEAUTE」(パリ装飾美術館主催)、1998年に「美と知とミーム」(資生堂主催、東京)、2000年に「Face to Face: SHISEIDO and Manufacture of Beauty、1900-2000」(ニューヨーク大学グレイ・アート・ギャラリー主催)、2007年に「福原信三と美術と資生堂」(世田谷美術館主催、東京)、2010年に「千姿美人」(資生堂主催、上海)などの企業文化展が開催されています。
こうした活動は、資生堂の独自性をきわだたせ、プレステージメーカーとしてのイメージづくりに貢献しています。
1986
点字による美容テキスト(メイクアップ)制作、提供
1986
SABFA開校
1989
資生堂国際フォーラム’89「サクセスフル エイジング」開催(以後2年ごと~2005)
サクセスフル エイジング
1989年、資生堂は国際フォーラム’89「サクセスフル エイジング」を開催しました。
急速に高齢化が進む時代において、「エイジング」(加齢)を単なる「老化」ではなく、「人間の熟成」として前向きにとらえることを提唱し、紫外線の影響など美しい肌を保つのに役立つ最新の研究成果を発表しました。
以来、資生堂の研究開発を通じて得た様々な知見を社会に還元することを目的に、当フォーラムを2005年まで2年ごとに開催し、医学から心理学、さらには文化、ファッションといった広いヒューマンサイエンスの分野から、エイジングにどのように対処すべきかを発信してきました。
1991
北京に合弁会社「資生堂麗源化粧品有限公司」設立
1992
「資生堂エコポリシー(環境に関する経営方針)」制定
1992
パリに香水専門店「レ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドー」開店(現:パレロワイヤル・セルジュルタンス)
1989
エアゾール製品のフロンガス使用全面廃止決定
1989
ボストンにハーバード大学と共同で世界初の皮膚科学研究所開設
世界初の皮膚科学研究所開設
1989年、マサチューセッツ総合病院(MGH)およびハーバード医科大学と資生堂の3者によって、アメリカボストンのMGH内に設立されたのがCBRC(MGH/Harvard Cutaneous Biology Research Center)です。
分子生物学や細胞生物学、臨床皮膚科学をはじめとする様々な領域の専門の研究者を集めたCBRCでは、疾患状態ばかりでなく正常な状態も含めた皮膚の基礎的な研究を展開しています。その成果として、皮膚中に存在する免疫細胞の一種「ランゲルハンス細胞」が神経と接触し、相互作用していることを世界ではじめて確認しました。この発見は心と肌の関連性を論証した「NICE理論※」へ発展させるなど、皮膚科学の進歩に多大な功績を残しています。
この理論に基づいて、1998年に「香りと心と肌」の関係に着目した新製品ブランド「キオラ」が発売されました。
※「NICE理論」・・心身ネットワークを通じて、快適な刺激が心を快適にすることで、体内から皮膚を活性化する物質(ホメオスタシン)が分泌されます。このホメオスタシンが肌を活性化し、抵抗力と回復力のある「生命力あふれる肌」に導くという理論。
1990
フランスに「ボーテ・プレステージ・インターナショナルS.A.(B.P.I)」設立
1991
(株)ディシラ設立(2019年11月販売終了)
1992
掛川に資生堂企業資料館完成
1992
資生堂アメニティグッズ(株)設立(2018年に事業終了)
1994
(株)アユーララボラトリーズ設立(2015年に売却)
1997
「PARIS-TOKYOーPARIS SHISEIDO 1897-1997 LA BEAUTE」展開催(パリ装飾美術館)
1997
資生堂ヨーロッパ株式会社設立(現:資生堂EMEA)
1998
「美と知のミーム、資生堂―創ってきたもの、伝えていくもの」展開催(東京、オリベホール)
1998
上海に合作会社「上海卓多姿中信化粧品有限公司」設立
1997
資生堂企業行動宣言「THE SHISEIDO WAY」、資生堂企業倫理・行動基準「THE SHISEIDO CODE」制定
1998
香港に合弁会社「資生堂大昌行化粧品有限公司」設立(後に完全子会社化し、「資生堂香港」に商号変更)
2000
国内外の全工場でISO14001の認証取得
2000
「Face to Face:SHISEIDO and the Manufacture of Beauty.1900-2000」展開催(ニューヨーク大学、グレイ・アート・ギャラリー)
2000
仏国ラボラトワール・デクレオール社を資本傘下に(2014年に売却)
2000
韓国に合弁会社「S&D Cosmetics Co., Ltd.」設立
2001
東京銀座資生堂ビル完成
国連グローバル・コンパクト
CSR(企業の社会的責任)管理を強化する目的で、世界的責任を持つ企業市民として行動し、率先して社会的責任を果たすという資生堂の使命を国際社会に表明するために、資生堂は国連グローバル・コンパクトに参加しました。資生堂は、国連が提唱した「人権、労働、環境および腐敗防止」に関する10の包括的原則*を遵守し、それらをビジネスで実践することを誓約しました。また、2004年以来資生堂は、「(人、社会及び美のための)CSR報告書」を発行し、具体的なCSR活動の概要を説明しています。
*国連グローバル・コンパクトの10原則
人権
企業は国際的に宣言されている人権の擁護を支持し、尊重する。
企業は人権侵害に加担しない。
労働基準
企業は組合の自由を支持し、団体交渉の権利を実効あるものにする。
あらゆる形態の強制労働を排除する。
児童労働を実効的に廃止する。
雇用と職業に関する差別を撤廃する。
環境
企業は環境問題の予防的なアプローチを支持する。
環境に関して一層の責任を担うためのイニシアチブをとる。
環境にやさしい技術の開発と普及を促進する。
腐敗防止
企業は強要と賄賂を含むあらゆる形態の腐敗を防止するために取り組む。
2005
コーポレートメッセージ「一瞬も 一生も 美しく」発表
2006
ヨーロッパリサーチセンター設立(2016年にヨーロッパイノベーションセンターへと組織再編)
2007
レストラン「ロオジエ」が「ミシュランガイド東京2008」で三つ星を獲得
資生堂中国研修センター
2008年4月に、中国における資生堂を支援してくれる人材の開発と強化を目指して、資生堂は資生堂中国研修センターを上海に設立しました。この計画は、中国での化粧品市場の拡大に伴って従業員数を増やすためでした。資生堂の精神を支持し自分たちの能力を発揮できる人材をこのセンターは生み出しています。センターの研修生は、資生堂の従業員だけでなく、提携先の経営者や販売担当幹部も含まれています。
2008
「ミシュランガイド東京2009」で、「ロオジエ」が2度目の三つ星、レストラン「ファロ」が一つ星をそれぞれ獲得
2009
化粧品業界で初めて環境省から「エコ・ファースト企業」に認定
2009
「資生堂のマーケティング史」がマサチューセッツ工科大学(MIT)の教材として世界に無償配信
資生堂のマーケティング史
資生堂が大正時代から戦前にかけて制作した化粧品の広告や店頭ツール、機関誌などのマーケティング資料が、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)で近代日本の歴史や文化を学ぶ授業の教材として使用されることになり、2009年5月下旬より、MITが運営する講義情報公開サイト「オープンコースウエア(OCW)」にて無償で一般公開されています。
MITが日本の歴史や文化を学ぶ教材として、日本企業1社のマーケティング史を深く掘り下げてサイトで公開するのは初めてのことです。
タイトルは「資生堂が伝える:20世紀初期の日本の化粧品広告とデザイン」(Selling Shiseido:Cosmetics Advertising & Design in Early 20th-Century Japan)で、ジョン・ダワー教授(MIT日本現代史)が監修し、ジェニファー・ワイゼンフェルド准教授(デューク大学大学院 視覚文化学)による論文や、資生堂が提供した資料画像約300点が掲載されています。
2011
「SHISEIDO THE GINZA」開店(現:SHISEIDO THE STORE)
2000
新研究所「資生堂リサーチセンター」開設(現:資生堂グローバルイノベーションセンター)
2003
上海に持株会社「資生堂(中国)投資有限公司」設立
グローバルビューティーコンサルタントコンテスト2004
世界の店頭で活躍する約13,000名のビューティーコンサルタント(以下BC)が、日頃培ってきた美容技術と接客力を競い合う「資生堂グローバル ビューティーコンサルタント コンテスト2004」を東京で開催しました。世界規模で美容技術を競う大会を開催するのは初めてのことで、同業他社でも例をみないものです。本コンテストは4年に一度開催される、いわばBCのオリンピック。2008年はさらにスケールアップし約19,000名のBCが参加しました。資生堂は、本コンテストを通じてBCのモチベーション、美容技術力、応対力を向上させ、さらなるお客さま満足を高めていきたいと考えています。
2006
セラピーメイクアップ施設「資生堂ライフクオリティービューティーセンター」開設
2006
カンガルースタッフ体制を導入
2007
ロシアに100%子会社「Shiseido(RUS), LLC.」設立
中国で植林活動開始
資生堂は、中国におけるCSR活動の一環として、2008年から中国の甘粛(かんしゅく)周 省蘭州市(しょうらんしゅうし)にて植林活動を行っています。
植林面積約69,300m2(東京ドームの約5倍)を「資生堂集団援助・蘭州市城関区羅漢山環保生態林建設基地」とし、2008年度は、コノテガシワ、ハリエンジュなど約7000本を植えました。10年に亘る緑化活動を通じて、日中の友好関係を深め、CO2の削減効果による環境保護、地場の雇用機会の創出など、中国社会に貢献することを目指しています。
2009
ベトナム工場完成(2023年12月に譲渡)
2009
上海、台北および高雄に資生堂ライフクオリティー ビューティーセンター開設
2010
米国ベアエッセンシャル 資生堂傘下に
(2021年に売却)
2011
資生堂グループ企業理念「Our Mission, Values and Way」制定
2012
ワタシプラス※1、Beauty&Co.※2開始
※1 現 資生堂オンラインストア
※2 Beauty&Co.は2018年4月サービス終了
2015
米国の皮膚科学研究所(CBRC)と提携拡大に関する契約を締結
2019
新・企業理念THE SHISEIDO PHILOSOPHYを策定
2019
那須工場設立
2022
福岡久留米工場設立
2013
創業の地「銀座」に 「価値創造拠点」となる本社新社屋 「資生堂銀座ビル」オープン
2015
資生堂アジアパシフィックをシンガポールに設立
2016
「DOLCE&GABBANA」とライセンス契約を締結(2022年12月に契約解消)
2017
保育事業「KODOMOLOGY株式会社」設立
2019
資生堂グローバルイノベーションセンター稼働
2022
サプライチェーン拠点を大阪茨木市に設立