Shiseido Talks特別対談NECフェロー×資生堂フェロー
顔認証と化粧品、その世界の頂点から見える未来
NECフェロー 今岡 仁(写真右)
資生堂みらい開発研究所フェロー 江連 智暢(写真左)
「フェロー」という存在をご存じでしょうか? 企業においてフェローとは、専門領域を極め、会社や業界そして社会に大きく貢献した人物を指します。今回のShiseido Talksは、特別編。たるみ研究のパイオニアとして日々顔を見つめている資生堂の江連智暢フェローと、同じく顔認証の権威であるNECの今岡仁フェローが対談します。世界をリードする「顔」研究のプロフェッショナルは、どんな思いで日々研究を重ね、どんな視点で世界を見ているのでしょうか? 企業の中での研究活動についてのいろいろと、「顔」を研究した先にある、人々の未来について語り合います。
NECフェロー
今岡 仁(いまおか ひとし)
1997年NEC入社、2019年NECフェロー就任。入社後、脳視覚情報処理の研究開発に従事。2002年に顔認証技術の研究開発を開始。世界70カ国以上での生体認証製品の事業化に貢献するとともに、NIST(米国国立標準技術研究所)の顔認証ベンチマークテストで世界No.1評価を6回獲得。令和4年度科学技術分野の文部科学大臣表彰「科学技術賞(開発部門)」受賞。令和5年春の褒章「紫綬褒章」受章。東北大学特任教授(客員)、筑波大学客員教授。
資生堂みらい開発研究所フェロー
江連 智暢(えづれ とものぶ)
入社以来、一貫してスキンケア領域の研究開発に従事。皮膚科学研究を基点に体系的なエイジングケア理論を生み出し、多くの主力製品を開発。顔のたるみ研究のパイオニア。化粧品技術者の世界大会(IFSCC)で4大会連続受賞を達成。IFSCCで行った基調講演では、「世界で最も有名な化粧品研究者」と称される。資生堂の150年以上の歴史の中で初めて、研究専門職の最高位「フェロー」の称号を贈られる。
世界一の研究者が語る、「顔」研究の奥深さ
江連 今岡さんが創り出した「顔認証システム」は、今や世界中で使われていますよね。実際、どういう技術なんでしょうか。
今岡 顔認証は個人を特定・確認するための手段です。パスワードなど様々な本人確認の手段がありますが、顔認証のメリットは「忘れることがない」という点にあります。例えば、鍵やパスワードは忘れてしまう、もしくは盗まれてしまうということがありますが、顔認証ならその心配はありません。スマートフォンのログインなど、パスワードを入力する場面でも顔認証を使うと楽になりますよね。
江連 でも顔は年齢を重ねることで変化が起こりますよね。それでも本人だ、と正しく認識できるのでしょうか?
今岡 そこがポイントなのです。私たちの開発している顔認証システムでは、顔に存在する様々な要素の中の、「変わらない部分」を選んで認識し読み取っているんです。変化が起きやすい肌や髪の毛などはすべて排除して、変わることのない骨格に近い部分を見ています。顔の研究を行っている同士ですが、変化していく部分にフォーカスされている江連さんの研究とは逆とも言えますね。江連さんはそもそもどうして顔、とくにたるみの研究をされるようになったのですか?
江連 入社して数年が過ぎた頃、「化粧品業界って、世の中の人の本当の悩みに対応できていないのでは」と思うようになりました。当時の化粧品は、小じわなどの肌の表面上の悩みへの対応が中心だったからです。でも、多くの人の悩みはもっと大きな顔の変化、つまり年齢とともに重力で肌が下がる「たるみ」でした。ただ、それは化粧品の対象外と考えられていたんです。そこで化粧品として何かできないかと考えて、たるみの研究を始めました。
今岡 ゼロからの研究だと、困難なことが多かったのではないですか。
江連 たるみをどのように測るのか、たるみとは何かという明確な定義もなかったので、そのような基礎的な部分からひとつずつ作っていく必要がありました。周りの研究員が最先端の遺伝子の解析などをしている中で、ひとりだけ顔の写真を毎日見ていたので、あの人は何をしているんだろうと思われていたようです(笑)。
今岡 江連さんの研究って、物理学とか他の領域にも入り込んでいるのが興味深いです。私は企業の研究者というのは、そうあるべきだと思うんです。一般的に研究者は自分の専門分野の中だけで研究を進めることが多いですが、研究したいことを実現するためには、物理学でも化学でも、どんな分野の知識でも取り入れたほうがよいと思います。
江連 世界が広がりますよね。今岡さんが顔認証の研究をするきっかけはなんだったのですか。
今岡 私は、もともとは、脳の視覚情報処理について研究をしていました。顔認証の研究に取り組み始めたのは30歳を過ぎてからです。ちょうどその頃アメリカの同時多発テロがありました。その時、世界中のパスポートに顔写真が載っていることを考えると、顔認証ができると必ず世の中の役に立つと思いました。
人間である以上、私たちは顔を使います。これは、1000年後、1万年後の人類においても変わらないでしょう。だからこそ、顔の研究はするべきだと思いました。難しい大きな山ではありましたが、「じゃあ、その山を登ってみるか」と思い顔認証の研究を始めたのです。毎日毎日積み重ねていったら、ここまで辿り着いたという感じです。
世界のトップを走り続けられる原動力と仕事術
江連 今岡さんの研究開発は、技術開発から社会実装まで広範囲に広がっていますよね。その情熱はどこから来るのですか。
今岡 私の原動力はただ1つ。研究は山登りのようなもので、登るのが楽しいからです。登り続ければいつか頂上に辿り着き、そこから見たことのない景色を眺めることができる。そう信じて未知の世界に挑戦し続けてきました。もちろんうまくいかないこともありますが、そこを考えていても仕方がない。ネガティブなことは全部捨て去って、ただひたすら技術を深めていくことに集中しました。
江連 研究開発を進める上で、困難なことはなかったのですか。
今岡 実は、NECとしては顔認証の研究をやめようと考えていた時期がありました。世界的に見ても顔認証の精度がなかなか上がらず、実用化には程遠い状況だったからです。研究チームが私と新人の2人だけになってしまったときに、逆に自分の実力でチャレンジできるチャンスだと捉えて「じゃあ本気出してやろうじゃないか」と思い、それから約2年間、顔認証に向き合い続けました。朝は前日の実験結果を確認し、日中はプログラムを修正しながら研究を続け、夜は論文を読みながら新たなアイデアを探しました。世界で圧倒的に勝てるものを作り、市場に認めてもらうしかないと考えたんです。
江連 それを実現していることは本当にすごいですね。そして勝ち続けている。今岡さんは米国国立標準技術研究所(NIST)の顔認証ベンチマークテストでの世界No.1評価を6回受賞されています。
今岡 1回目はとにかくがむしゃらに努力して勢いで取りましたが、2回目以降はそうはいきませんでしたね。プレッシャーも大きくなりますし、正直出るのが怖い気持ちにもなります。しかし、例えば世界の大きなスポーツ大会などでは1回勝つ選手より、2回、3回と勝ち続ける選手こそがレジェンドと呼ばれますよね。顔認証技術の分野でも、継続してトップを走り続けることで、自分自身に変化が起きるのではないかと考え、人間の修行だと思い研究し続けました。実際に勝ち続けることで知名度や信頼感が生まれて企業の利益にもつながっていると感じます。
江連さんも、国際化粧品技術者会連盟(IFSCC)で4大会、それも連続で受賞されていますが、その原動力は何なのでしょうか?
江連 業界に新しい流れをつくりたい、という思いでしょうか。IFSCCの大会に参加したのはそのためです。
当時、たるみは化粧品の対象外とみなされていました。その常識、つまり業界の流れを変えることができれば、化粧品がもっと世の中に貢献できる。そう考えて、グローバルレベルで影響力の大きいこの大会で発表し続けることにしました。
今岡 研究開発を進める上では困難も多いかと思いますが、どんな時が楽しいですか。
江連 「明日、今まで誰も見たこともない世界が見られる」と想像する時は楽しいですね。皮膚の中って、これまでは顕微鏡の画像で見ていました。でもそれだと難解でよくわからない。それで3次元、さらには4次元で自由自在に見る方法を開発しました。そんな新しい方法で見ると、皮膚の中には今まで想像もしなかった世界が広がっていました。「明日は何が見えるだろう?」、「次はどんな方法を開発しよう?」などと考えると明日が待ち遠しくなります。
今岡 とてもよくわかります。その喜びは研究者として本当に大きいですよね。未知の世界を探索し、切り拓いていくと、新しい発見が次々と現れ、世界が広がっていく…。とはいえ、研究を進める中でなかなか取っかかりが見つからないときもあるのではないでしょうか。
江連 研究を進める時には、「視点」を意識するようにしています。俯瞰的に見て、他のルートが無いかを探す視点と、目先の1歩を確実に踏むための視点を使い分けるようにしています。また、ソリューションに近い領域であれば、生活者のレスポンスが読めないので、何が正解かわからない。そんな時は、思いつく限りのことを全部やってみることも重要だと思います。そうすることで、正攻法では見落とすような真理に迫れると考えています。今岡さんは研究に行き詰った時はどのようにしていますか?
今岡 私は、徹底的に書き出すようにしています。人には言いたくないようなモヤモヤした気持ちや、何が問題なのかわからない状態でも、自分の心が思ったそのままをノートに書き出して自問自答を繰り返すんです。そうすることで徹底的に見える化ができ、自分の考えが洗練されていくように感じます。私の研究室にはそんなノートがいろんな場所に転がっています(笑)。
企業と研究者、そしてフェローであること
今岡 江連さんは研究において、「ダメかもしれない」と思った瞬間はありますか。
江連 そこはあまり意識しなかったですね。研究者と企業のかかわり方は重要だと思っていて、研究者が独立した精神をしっかり持つことが大事なのではないかと思います。自立した研究者、際立つ個性の集合体が企業を輝かせると思うんです。化粧品にはいろんな成分が入っていて、1つひとつの成分が際立っていなければならない。水と油のように混じり合わない成分もたくさんあります。それをうまく混ぜ合わせてより高い価値を生み出すのが化粧品作りです。企業と研究者のあり方も、それと同じようなところがあると思います。化粧品を通して会社を見ていると、そんなことを感じますね。
今岡 私は、個人の利益と会社の利益が一致する部分でまず仕事をしようと考えるので、合理的かもしれません。自分が頑張ることで会社が良くなり、会社が良くなることで自分も恩恵を受ける。そうやって、お互いに成長していければと考えています。
江連 日本では理系の大学院を修了した後、企業の研究職として就職される方が多いですよね。にもかかわらず、企業研究者という仕事の魅力が一般には伝わっていないのが実情です。フェローという立場を通して、「企業研究者というのは、こんなに楽しくて刺激的で、社会に貢献できる仕事なんだ」ということを、世の中や子供たちに伝えていきたいですね。それは、科学立国日本のボトムアップにも貢献できるのではないかと思います。
今岡 自分の開発した技術が実際に世の中の役に立つことは、企業研究者の醍醐味ですよね。一方で泥くさい作業も研究には必要です。どこに問題があるのかわからない状態から、さまざまな手法を使って解決策を見出して、ものを作り上げていくところに企業での研究の面白さを感じます。ある時アメリカ出張の帰りに空港でNECの顔認証システムを見かけたときは、自分が開発に携わった技術が世界中で活躍している喜びと同時になんだか不思議な気持ちになりました。
顔の研究から見つめる、美しい未来
江連 今岡さんは今後、顔認証の研究開発をどのように進められますか。
今岡 「表情」の研究、特に「人間はどのように顔の筋肉を動かしているのか」というテーマは面白いと思います。真の感情が一瞬フラッシュのように見え隠れする表情のことを「微表情」といいますが、これについてはまだまだわかってないことが多いんです。
江連 顔認証で「個体」を認識するだけではなく、「感情」も捉えるということですね。
今岡 私の最終的な目標は、顔と脳の関係をすべて調べることです。顔認証の研究は、そのファーストステップ。現在は、脈拍などのバイタルサインの計測など新たな分野にも挑戦しています。まだ山で言うと二合目くらいですが。
江連 それをどのように社会に還元されるのですか。
今岡 今は顔認証によって健康状態を把握するようなサービスの開発に取り組んでいますが、顔から様々な形で健康状態を知ることが可能になる。顔を研究する者同士、そんな未来を一緒に見据えていけたらいいですね。
今岡フェローに聞く、研究のなかの「美しい」と思う瞬間
「自分が求めている顔認証の精度が数字できちんと出た瞬間、美しいと強く感じます。私が顔認証の研究で最も嬉しかったのは、エラー率が1%を切ったときです。1%の壁はなかなか破れないと言われていましたが、0.3%という数字がぱっと表示されたんです。その数字は偶然ではなく、技術や計算、自分自身のこれまでの努力などいろいろな積み重ねによって生まれた結果だったので、その数字を見た瞬間、美しい、と思い、涙が出そうになりました。」